北陸の旅(一乗谷朝倉氏遺跡)その2 ― 2009年07月26日 22時59分38秒
金沢へ出張したついでに、海の日の祭日三連休を利用して北陸方面の旅をした。
史跡「一乗谷朝倉氏遺跡」をめぐるのつづき。
前回のブログで朝倉家の滅亡は、織田信長との戦いであることを話した。
どんないきさつであったか?
手元の「日本の歴史 第8巻 戦国の活力」で朝倉との場面を読みなおす。
永禄13年(1570年)4月20日に、信長は三万の軍勢を率いて京都を出発。
朝倉義景を討伐するため。
上洛要請に応じないため懲らしめるのが名目。
美濃、尾張、伊勢、近江を押さえた信長が、次の攻撃目標の越前は当然。
領国拡大の戦い。
ところが、近江の浅井久政・長政父子が朝倉方に寝返って挙兵した。
長政の妻は信長の妹で、信長は信頼していたが、撤退せざるを得なかった。
30日深夜に信長は京都へ戻る。
浅井父子の寝返りの理由は定かではない。
信長の勢力拡大の不安があったのかもしれない。
朝倉義景は難を逃れたが、朝倉と浅井は信長との長い戦いになる。
戦いは3年に及ぶ。
その間、信長は大阪の本願寺、比叡山延暦寺との争いもあった。
武田信玄が死去すると、反信長陣営は崩れていく。
信長は、天正元年(1573年)8月に一乗谷を攻撃開始。
朝倉一門や家臣が降伏、朝倉義景は、一門の朝倉景鏡に迫られて自害した。
8月20日のこと。
8月27日には浅井久政・長政父子は滅亡し、浅井氏の分国は羽柴(木下)秀吉に与えられた。
写真は、朝倉館の唐門。
中を進むと朝倉義景の石造りの墓がある。
(株)ワイ・ティー・エムコンサルティング 土谷政則
YTMC http://www.ne.jp/asahi/ytmc/home/index.html
史跡「一乗谷朝倉氏遺跡」をめぐるのつづき。
前回のブログで朝倉家の滅亡は、織田信長との戦いであることを話した。
どんないきさつであったか?
手元の「日本の歴史 第8巻 戦国の活力」で朝倉との場面を読みなおす。
永禄13年(1570年)4月20日に、信長は三万の軍勢を率いて京都を出発。
朝倉義景を討伐するため。
上洛要請に応じないため懲らしめるのが名目。
美濃、尾張、伊勢、近江を押さえた信長が、次の攻撃目標の越前は当然。
領国拡大の戦い。
ところが、近江の浅井久政・長政父子が朝倉方に寝返って挙兵した。
長政の妻は信長の妹で、信長は信頼していたが、撤退せざるを得なかった。
30日深夜に信長は京都へ戻る。
浅井父子の寝返りの理由は定かではない。
信長の勢力拡大の不安があったのかもしれない。
朝倉義景は難を逃れたが、朝倉と浅井は信長との長い戦いになる。
戦いは3年に及ぶ。
その間、信長は大阪の本願寺、比叡山延暦寺との争いもあった。
武田信玄が死去すると、反信長陣営は崩れていく。
信長は、天正元年(1573年)8月に一乗谷を攻撃開始。
朝倉一門や家臣が降伏、朝倉義景は、一門の朝倉景鏡に迫られて自害した。
8月20日のこと。
8月27日には浅井久政・長政父子は滅亡し、浅井氏の分国は羽柴(木下)秀吉に与えられた。
写真は、朝倉館の唐門。
中を進むと朝倉義景の石造りの墓がある。
(株)ワイ・ティー・エムコンサルティング 土谷政則
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